私のライフストーリー
幼少期時代 (2歳)
三人兄姉の末っ子として誕生。次男坊らしく自由奔放に育ち、ひょうきんでいつも鼻歌をうたってる子どもでした。兄と姉とは、よく遊び、よく喧嘩しました。怒られる兄と姉を見て、怒られないように動くような、要領の良い生き方をしていました。(らしい)



小学校時代
兄の影響もあり、小学校1年生の頃からサッカーをはじめる。とにかく体を動かすことが好きで、休み時間もサッカーとキックベースの毎日。スイミングも6年生まで通いつづけ、平泳ぎで出雲市2位になったのはちょっとした自慢です。
学校外では、ボーイスカウトに入団。火起こしや自然の中で創作したりとアウトドアに目覚めたきっかけにもなりました。
ピアノは4年間習い、小学校6年生の時にはミュージカルで主役に抜擢され、ソロデビュー。
中学校時代
出雲市立第一中学校に進学。
人生の恩師と友達に恵まれた中学時代。自分の原点は中学時代にあるといってもいいほど自分の中ではかけがえのない3年間でした。
人生で初めてのキャプテンとしてサッカー部をまとめ、県総体で3位に。グラウンド場の姿勢だけではなく、ピッチの外の私生活も含めた行動がすべて結果になって返ってくるという恩師の教えは、今でも大切にしています。
中学の3年間を通じて、自分の中にものさしを持ち、自分の行動に自分で責任を持つことの重要性を教えてもらいました。
高校時代
出雲高校普通科に進学。得意教科は、数学と世界史。苦手教科は、国語と物理。
一番エネルギーを注いだのは、やっぱりサッカーと体育祭でした。
全国大会出場を目指し、とにかくサッカーに情熱を注いだ3年間でした。サッカー部の同級生とは、休み時間から放課後、休みの日までずっと一緒に過ごしました。全国出場は叶いませんでしたが、公式戦で県2位になるなど誇らしい結果を残せました。
また高校3年生の体育祭は、最も記憶に残る人生の1ページの一つ。オレンジ組のリーダーとして、仲間とともに青春を謳歌しました。
チームで一つのことを創り上げていくこと、そして、気持ちを一つに目標に向かうこと。リーダーはチームの力を足し算ではなく、掛け算に変えていける人であること。ゴールを共有し、一人一人が貢献できる立場と役割を持ってもらうことの重要性を、サッカーと体育祭で学びました。




大学時代 (学生生活)
中央大学商学部入学。とにかく東京にでたい一心で受験をして、上京。
とにかく自分の世界を広げたいと、海外をリュックひとつで旅するバックパッカーに憧れ旅をしました。国内43都道府県の地域をヒッチハイクをして巡り、海外はアジアを中心に18カ国を自分の足で巡りました。
言葉が通じない、これまでの常識が全く通用しない。そんな異なる文化や宗教観に触れ、自分の価値観や当たり前が更新されることで広がる世界を知りました。
特に、ミクロネシア連邦ヤップ島での自給自足の暮らしでは、命のありがたさと尊さを学ぶ貴重な経験でした。言葉や人種を超えて人が人としてつながることで育まれる自己と他者への信頼こそ、人生の豊かさであると気がつきました。
また、活動に共感をした認定NPOカタリバにてボランティアをはじめ、全国の50校以上の中学校、高校で出前授業を行いました。ここから若者のリアルボイスと向き合っていく人生のはじまりです。



大学時代 (成人式)
成人式で中学校の同級生と再会し、語り合った帰りの新幹線で、将来、自分は必ず島根に帰ってくることを決意。
この日を境に島根を自分たちでもっとおもしろくしたいと、東京で島根出身の若者が集まるコミュニティを立ち上げ、県人会などのイベントの企画や東京で島根の農作物を仕入れてファーマーズマーケットに出店、島根県へのツアーの企画実施など島根を盛り上げる取り組みをはじめていきました。


大学時代 (就職活動)
就職活動は人生でもっとも悩みました。自分が社会とどうやって関わっていけばいいのか。自分のやりたいことは何なのか。考えれば考えるほどわからなくなり、どうやって決めたらいいのかわからなくなりました。
それでも、自分が進みたい道と周囲からの期待とのギャップで、画一的な価値観から外れることへの恐れを感じつつも、自分なりのキャリアを選ぶことの重要性を感じました。
その意思決定へのプロセスを通じて、現代の社会では、誰もが孤独感・マイノリティになることを実感しました。
“誰も孤独を感じることのない多様な個性を受容できる社会であってほしい”という思いを強めました。
そのためまずは、個人が本来持っている可能性を発揮できる企業の体制づくりをサポートすることをしようと考え、企業の人材育成・組織変革を支援する企業へと就職しました。

新卒時代
新卒で入社した会社は、日本代表する大手商社、食品メーカー、建設会社からIT企業をはじめとするベンチャー企業から中小企業まで様々な企業の人材育成、組織変革を支援する企業でした。全国に出張しながら、朝早くから深夜遅くまで、お客様の組織や人の課題に向き合いひたすら働いていました。
一番印象に残っているのは、組織を変革したいと危機感を持った企業の経営者・人事の皆様と2年間に渡って、体系的な人材育成施策を構築し、少しずつ積み上げていくことで組織が少しずつ変わっていく姿を感じたことです。
それと同時に、一人ひとりの強い意志が企業をつくっていくこと、また個人の能力を活かすも殺すも組織の制度や風土が起因していることが実感を持ってわかってきました。
そんななかで、もっと早い段階の世代の人材育成や教育に問題意識を持つようになりました。
さまざまな業界の企業とお仕事をしたことで、就職活動では気づけなかった様々な仕事の裏側にあるおもしろさ、問題意識を持つことができました。
(一財)地域・教育魅力化プラットフォーム時代
学生時代に関わった教育系の認定NPOカタリバが、地元島根に拠点を出すということが決まり、声をかけていただいたことをキッカケに島根県にUターンしました。
この時も、帰るのは今なのか自問自答し悩みましたが、最後は自分のやりたいことにまっすぐに挑戦しようと決断しました。
20歳の成人式で決意して7年。教育や人材育成を起点に持続可能な地域・社会をつくるため島根へUターン。そこから12年間。およそ1500人以上の高校生、大学生、若手社会人と関わり、NPOや留学プログラム、ビジネスプラン計画などさまざまなプロジェクトの企画・実行に関わりました。島根で最も若者の声を聞いてきた自信はあります。


現在
スウェーデン、デンマークなど北欧の視察をきっかけに、「若い人たちが帰りたい、暮らし続けたいと思う島根をつくる」ことが自分の悲願であることを再認識したと共に、次のアクションに移る必要性を感じました。若者たちの声を届けるため、島根の明るい未来のために、まずは自分が声をあげようと政界を志すことを決意しました。これからもたくさんの人たちの声を聞き、誰もが明日を信じられる、自分の可能性を発揮できる、島根の未来を築き上げていきます。
